チヌア・アチェベ
粟飯原文子(訳)
光文社古典新訳文庫(2013)
”古くからの呪術や慣習が根づく大地で、黙々と畑を耕し、獰猛に戦い、一代で名声と財産を築いた男オコンクウォ。しかし彼の誇りと、村の人々の生活を蝕み始めたのは、凶作でも戦争でもなく、新しい宗教の形で忍び寄る欧州の植民地支配だった。「アフリカ文学の父」の最高傑作。”
1958年にイギリスで出版されて評判になり、アフリカ文学の起源と位置づけられている小説、とのこと。
作者はナイジェリア出身のイボ人で、ロンドン大学で学んだインテリ。ジョゼフ・コンラッドの「闇の奥」やジョイス・ケアリーの「ミスター・ジョンソン」などのアフリカを舞台にした小説を読んで、こんなの「西洋のアンチテーゼ」に過ぎず、アフリカをきちんと描けていないという問題意識で書いたのだそうな。
三部構成になっていて、第一部ではウムオフィア村でのオコンクウォ一家の生活を、第二部では村を追放されたオコンクウォが母の故郷ムバンタで村の外と関わり、あげくキリスト教に息子を奪われる顛末を、第三部ではウムオフィア村に戻ったオコンクウォが、白人とキリスト教との接触で変わっていく村の中で取り残され、やがて暴力的な悲劇を迎えるまでを書いている。
序盤でオコンクウォの生活を通してイボ人の村落共同体がどのように機能していたかをしっかり書いていて、読みごたえがある。特に祭祀や宗教的なシーンに臨場感があってよい。
まだ呪術が生きていた時代、「精霊」の言葉や先祖からの慣習の影響力は大きく、救いであると同時に理不尽でもあった。オコンクウォは第一部で、実の息子のように育て精神的に結びついていたイケメフナを神託によって殺す。村の老人エゼウドゥは「あの子はお前を父と呼んでおる」と言ってオコンクウォに直接殺させようとはしないが、よくも悪くも男性的で見栄っ張りなオコンクウォは臆病者と呼ばれたくないばかりに手にかけてしまう。老人の屈折した忠告がリアリスティックでよい。
この殺しが後の展開にも大きく響いてくる。直接的にはオコンクウォの実子であるンウォイェがキリスト教徒になるきっかけになり、暗示的には、エゼウドゥの葬式でオコンクウォが新たな罪を犯した時、絶対的な慣習の力で裁かれどうにもならず、7年の間村を追放されるシーンにも影響している。
ともかく祭祀と慣習からくる掟は絶対であり、受け入れて耐えることしかできない。キリスト教はそのような生活様式を破壊するので、オコンクウォのような掟を内面化してその中で地位と名誉を求める男には我慢できないものだが、実子のンウォイェのような掟によって傷ついた者にとっては解放(オルタナティブ)でもある。
著者は村社会を美化せず、蛮族として書いてもいない。同時にキリスト教を侵略者としても解放者としても機能するように書いている。この辺りのバランス感覚が「アフリカ文学の祖」と呼ばれる所以なのだろう。見方によっては「まじないが生きていた頃の何処にでもある中世村落社会の一例」というような、作り物めいたバランス感覚にも見えるのだが、こればっかりは当時のアフリカ村社会が実際どんなだったか知らないと、判断のしようもない。
男と女の関係についても絶妙にバランスを取っている。やっぱり男尊女卑はきついのだけれど、あんまりひどい夫の暴力を見かねた妻の身内が妻を連れ戻し、それを巡って裁判沙汰になる一例も書いている。これもどれぐらい実体に即している描写なのか、小説を読んだだけでは判断できないから評価のしようがない。異国の小説を読み込むのはそれなりの手間がかかるなぁと実感させられた。
ともかくプロットが凝っている。オコンクウォが老人エゼウドゥの葬式で何をやらかしたのかというと、まったく唐突に銃を暴発させるんだけど、さらっと「銃が暴発した」と書いてあるだけだし適当すぎないかと最初は思った。しかしよくよく思い返してみると、オコンクウォが銃の扱いが下手なのを馬鹿にされて平和週間なのに妻を殴ったというくだりが最初の方に出てくるのだ。こういう飛び道具のような伏線がけっこうある。衒学でも、感情移入でもなく、技巧で読ませてくるタイプの名作だと思う。