2024年04月29日

「誤解され続ける家康」 〜徳川家康25 孤城落月の巻(山岡荘八)〜

徳川家康 全26巻合本版 (山岡荘八歴史文庫) - 山岡荘八
徳川家康 全26巻合本版 (山岡荘八歴史文庫) - 山岡荘八

子供の頃一番好きな作家は山岡荘八だった。
題材は信長、秀吉、家康といったメジャーどころだし、文章が難しくなくて、会話がおもしろい。
この「おもしろい」というのは単に「感情移入できる」というだけではなくて、もっと構造的なものである。
山岡荘八のストーリーテリングは「ディスコミュニケーション」が基本だ。
山岡荘八の小説に出てくる武将たちは、とにかく「思っていることをそのまま言わない」のである。
それは部下の前での対面のためだったり、貫きたい意地のせいだったり、あるいは思慮が足りないだけだったりと様々な理由があるのだが、とにかくよく誤解される。その誤解から戦争が起きたり、処罰や切腹に繋がったりと、話が転がっていくことが多い。

それの何がおもしろいの?と思われる人も多いだろうが、この「誤解」ベースのストーリーテリングには大きなメリットがある。
「悪者」「悪意」に頼らなくても争いが起こせるのである。
何年もマーベルの映画やらヒロアカやら見てると、うんざりしません?
「正義VS悪」の二項対立を捻ってこねくり回してぎゃーぎゃーと、「ダークナイト」でよくないですか、みたいなテーマをずっとやるやん。
なんか他に話の作りようってないの?
「悪者」立てて美味しくいじらないと話転がせないんですか?
って思いません?
山岡荘八はきっと思ってたんでしょう。勧善懲悪の時代劇なんざかったるい。
ではどうする? となったときに、卑近でリアリティがあり、現代人にも分かりやすい題材を彼は時代小説に導入したのです。
「なんか何言ってんのかよく分からない社長(大名)!」
「はっきりものを言わない上司(武将)!」
「誤解する部下(近習)!」
「起きる騒動(戦い、乱、謀反)!」
「広がる損害(討ち死に)!」
「誰が責任取るねん!」
「俺か? お前か? 知るか!」
「はいクビ(切腹)!」
という一連の流れ。「誤解」ベースのストーリーテリングを。

これがね、いいのよ。なんか飽きないの。「あーはいはい」ってならないの。もどかしくてたまんないの。

でも視点によっては、言い分が登場人物どころか、読者にまで伝わらないこともある。
そういうときは賢い配下の切れ者に、「この意味はわかるであろうな?」と無茶ぶり気味に解説をさせることも多い。
そこで切れ者たちが、「言葉の裏に込められた想い」やら「真の狙い」やらはっきり読者にも分かるように解説してくれたりね。
で実際、「おー賢い!」「いや、まわりくどすぎるだろ!」ってなるのもお約束だったりする。

そんな山岡荘八の生涯最大の大著が「徳川家康」で、全26巻もある。
全部読んでるわけじゃないけど、古本屋で見かけるたびにちょくちょく買い集めていた。その生き残りの24巻〜26巻をこの間から読んでいる。
25巻までを読み終わっての感想は、いよいよ「誤解」が「悲哀」にまで進捗しつつあるなと思った。

時は「大坂夏の陣」、権勢を掴んだ家康も、齢70を迎えさすがに老いた。
将軍職は息子に譲り、あくまで大御所としてではあるが、それでも政には関わり続けている。「天下泰平」、あと少しまで迫った戦なき世を実現するために。
そんな老いた家康には、「天下泰平」とは別に、ある真心があった。
豊太閤(秀吉)との約束であった「豊臣秀頼」の命を助けようと目論んでいたのだ。冬の陣に続けて、二度目の反乱を起こされてなお。
「俺は今川氏真も許した。かつて長男(徳川信康)を切腹に追い込んだ織田信長のせがれ(信勝)も許した。ここで秀頼だけを死なせることはするまいぞ」と、至極まじめに、生涯貫いた「堪忍」という意地を貫こうとしているのである。
しかしその家康の真心は、周囲の人間に伝播されることはない。
家康以外の誰にも、意味が分からない。
「天下一の大阪城に浪人を呼び込んで二度も反乱を起こした」大罪人を許す意味が分からない。
「御隠居様は千年に一人いるかの大人物、まことの大樹」と口々に褒められ、敬愛されているのだが、その真心までは伝わらない。
「老いて優しくなられた」と思われ、遠巻きにご機嫌を伺われているばかりである。

いちおう「家康の理屈」をトレースしている登場人物もいる。「無刀」の極意を会得した柳生宗矩は柳生の高弟を秀頼の傍に送り込み、秀頼と淀殿が命を落とさないよう努力をしている。――彼は山岡荘八のお気に入りであり、唯一「家康の心境」まで達することができる同士である。とはいえ将軍(秀忠)お傍仕えの身、家康と直接接する立場ではない。

だから部下たちは、いやそれどころか読者までもが。こう思う。
「嘘くさい。ごちゃごちゃ殺したくないと老いのわがままを言っているが、戦なき世と言うのなら、後の世のために豊臣は滅ぼすべきだろう」と。
――切々と家康の心情描写はされているのにも関わらず、高みにいる彼の真心は、理解しきれない。不十分に、「誤解」を通してしか、我々は家康を理解できない。不思議とそのようになっている。

そんな部下と読者の心を知ってか知らずか、自らの真心に急かされるように家康は危険な「茶臼山」に布陣する。
対するは真田幸村。彼は家康の野心「天下泰平」のカウンターパートとして描かれている。「この世に戦はなくならない」というのが幸村の信条である。戦なき世を嘯くなら俺を殺してみろ、と言わんばかりに家康に攻めかかる。

少し話がそれるが、山岡荘八は合戦描写も非常にうまい。「嘘食い」読んでると「え、立会人のバトルパートの方がおもしろくない?」と思うじゃないですか。あれと同じ感覚に陥る。
合戦が始まってから武将が首取られるまでの一連の流れが臨場感にあふれている。
25巻でも大阪方の「塙 団右衛門」「後藤 又兵衛」「木村 重成」といった各将の散り様が見事に描かれている。
彼らの史実の行動を抜群の心情描写で彫刻のように掘りぬいているのだ。(こういう性格の将だから、こういう「事前の計画」をした、それに対して、こんなトラブルが起こったのでこうなってしまった、という「思わぬ結果」がきちんと対応している)。

それに比べると、幸村の最後は、アンフェアと思うくらいにあっけない。山岡荘八はやはり悪役を描くのは筆が乗らないのだろう。あんなにエモい幸村の最後をこんなに冷淡に書くのかと驚くほどだ。

冷淡さは、唐突に、秀頼と淀殿にも向けられる。
家康の意を十分にくみ取れない家臣たちによって彼らは隠れていた曲輪で切腹に追い込まれるのだが、その今際の際のシーンがまさかの「省略」である。
見つかった死体の描写の冷たさと言ったら――。
それまで、幸村たち配下の視点内では気にも留められなかった「淀殿の老い」と「秀頼の醜い肥え太り」が、ここで、客観的な死体の描写として付記されるのか……。

それはまるで、家康の妄執の夢が醒めるような、それも冷や水かけられて醒めるような、冷淡さだった。「許されるべきでないものを許す」という善性の妄執が、その「許されざる者たち」の醜さで拭われてしまったのである。

冷淡さは家康に憑依し、身内に向かう。
大坂夏の陣の後、家康は、息子の松平忠輝を、その兄である秀忠に直談判してまで、将軍家に処分させようとする。
その前に家康と忠輝は長い会話をするが、視点は忠輝寄りで描かれる。忠輝は家康が「腹を割って話していると誤解し」、舅である伊達政宗と意気投合した海外との交易、抗争の話を開陳してしまう。
それは合理的な政策だった。しかし、家康が人生をかけてようやく実現できた「天下泰平」を損ないかねないものだった。
だから、処分する。
秀忠はそれを受け入れた。
しかし、「秀頼を殺して身内に甘ければ天下に対して示しがつかない」という家康の理屈を受け入れるということは、
秀頼の妻である千姫や、秀頼の遺児である国松もまた処分するということだった。
そのことに気づいて動揺する家康の顔は、さながら有名なイヴァン雷帝の絵画のそれである。

「誤解」を通り越した「悲哀」――もはや理解できないところまで到達してしまった家康が行う「子殺し」を、誰もトレースできない。秀忠も、読者も、柳生宗矩にだってできるか怪しい。もう「無刀」の段階も通り越して我が子を喰らっているのだから。


今読んで改めて思ったのだが、「徳川家康」だけは毛色が違う。
織田信長も豊臣秀吉も、娯楽小説としてすばらしかった。桶狭間、墨俣一夜城、今でも文面が思い出せるほど活き活きとしていた。
だが家康だけは、文学の領域に踏み込んでいる。ドストエフスキーみたいな読後感になりつつある。
26巻を読むのが少し怖い。ここまで極まってしまった神君が、てんぷらを食って能天気に、幸せに死ねるはずもない。
厭離穢土欣求浄土……。せめて安らかに逝ってほしいものだが、果たして――。
posted by 雉やす at 00:46| Comment(0) | 書評(歴史・軍事) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月18日

大江戸えねるぎー事情(水の章)/石川英輔

大江戸えねるぎー事情
石川英輔
講談社文庫
初出1990年3月



1:神田上水
 由来は徳川家康が1590(天正18年)に作らせた小石川水道。これは目白台下で神田川の水を分けたものだが、人口が増えるに従って拡張され、1629(寛永6年)頃に、井の頭、全福寺池、妙正寺池を水源とし、地中に埋めた伏桶(ふせび:木製の配水管)の長さが67キロメートルにも及ぶ本格的な上水道として完成したそうな。
 高低差を利用した「自然流下式」と呼ばれる水道で、「水道桝」や「水道井戸」と呼ばれた穴からつるべを落として汲み上げた。桝の数は神田上水だけで3600カ所以上で、だいたい30メートルから40メートルに一カ所は備わっていたらしい。当時これほど本格的な都市浄水はロンドンと江戸にしかなかったそうだ。

2:玉川上水
 年々人口が増加するに連れて神田上水だけでは水量が足りなくなり、赤坂を始めとした溜池の水質も悪くなってきた。そこで新たに着工されたのが玉川上水だった。多摩川の羽村から取り入れた水を引く大工事だったが、1653(承応2年)に着工してから一年も経たずに四谷大木戸まで43キロの水路を開通させたのだそうな。
 玉川上水の完成によって目白周辺の高台から下町南部の京橋まで給水ができるようになり、100万都市の人口を支えたのだそうな。

 時代小説を書くにもそうだけど、ファンタジー物の架空都市を作るにも便利そうな知識だなと思った。湧き水からの「自然流下式」が使えるような山と平野のマップ設定。「埋立地だから井戸を掘ってもよい水が出ない」という工事の必要性。掘りやすい関東ローム層に似た火山灰層の地質の描写。人口規模と「水道桝」の密度など大変参考になる。
 水道代の徴収システムなんかも江戸から輸入して使えそうだ。江戸時代には水銀(みずぎん)と呼ばれる水道代を地主が納めていた。これは表通りに面した土地の間口の広さによって決められていたのだとか。武家の場合には石高に準して納めたようだが、石高に比例したわけではなく、石高が高い方が割安になる逓減式になっていた。風呂屋や料理屋など水の使用量が多い場所には専用の「呼び井戸」もあったそうだが、そういう場所も使用量と水銀は比例せず、割安になっていたらしい。
 昔ファンタジー物書いててこの辺のリアリティですんごい苦労したような覚えが……。勉強って大事ですね。

 
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2017年06月17日

大江戸えねるぎー事情(あかりの章)/石川英輔

大江戸えねるぎー事情
石川英輔
講談社文庫
初出1990年3月



 いつか時代小説を書こう書こうと思っていつまでも勉強せずに何年も経ってしまったので、少しずつやっていくことにする。一冊目は「大江戸えねるぎー事情」を教科書にして、一章ずつ。

1:行燈
 江戸時代もっとも一般的だった照明器具は「行燈」だったそうな。小皿に油を入れて、それに灯芯をひたして点火する。むき出しのままだとすぐ消えてしまうので灯芯を障子紙で囲う。囲ったおかげで灯りが紙に反射してより広い範囲を照らせるようになり、一石二鳥ということらしい。
 油は菜種油か、もしくは魚油を使った。菜種油は高級品で、一升当たりの値段で比べると米の四倍も高かったそうだ。あまりお金のない庶民は魚油を使った。安くて便利なのだが、燃やすと相当魚臭いらしい。
 
 というわけで、江戸時代の長屋や横丁なんかを舞台に生活感のある話を書きたいときには、うっかり菜種油を使わせてはいけない。

「ちょっとあんた、夜中にいつまでもガサゴソしてないでさっさと寝とくれよ」
「べらぼうめうるせぇったらこの。帳簿の数が三文合わねぇでこちとらイライラしてんだよ。明日分の釣り銭が足りなかったら商売になんねぇだろうが」
「そんくらいどうにでもなるよ馬鹿馬鹿しいねぇ。油だってタダじゃないんだよ? 三文の確認するのに何文の油使う気だい」
「まだ三文も使ってねぇよ畜生め。今年のイワシは腐るほど取れたから安いんだよ。てめぇで買いに行きもしねぇで何抜かしてやがる。家で油売ってばかりのくせに」
「値段の問題じゃないんだよ。寝巻が魚臭くなるのがやなんだよ。ただでさえ臭い亭主がイワシの腐ったような臭いをぷんぷんさせてふとんに入ってくるなんて冗談じゃないよまったく」
「値段の話してたんじゃねぇか。図星さされたからって臭いがどうこう、こまけぇことを言うんじゃねぇまったく」
「あんたの鼻が詰まってんだろう。昔あたしが奉公に出てた屋敷じゃ、いつも澄んだ色の菜種油を使ってたもんさ。嫌味な臭いなんかちぃっともしない。同い年のやっちゃんが料理人の熊公と仲が良くってね。たまにこっそり油揚げなんかご馳走してもらったりして。楽しい思い出だよ。そんな楽しい思い出も今じゃあんたのせいで魚まみれだよ。ごちゃごちゃ言われたくなけりゃ菜種油が買えるくらい稼いでみろってんだ」
「あーもううるせぇな。明日稼ぐための三文なんだろうが。釣り銭がカツカツなんだよ!」
「あたしゃカツレツなんて言ってないよ、油揚げっつったんだこのすかたん」
「江戸時代にカツレツなんてあってたまるかい!」

 ――お粗末。
 「ガサゴソ」だの「イライラ」だの「カツカツ」だのと擬音の時代考証があやふやな茶番ではあるけれど、「菜種油」と「魚油」の使い分けだけでもだいぶ生活感は出せそうだ。ありがたいことである。

 さて、江戸時代の人は今よりもだいぶ夜目が利いたそうだが、それでも障子紙で透かしたぼんやりとした光では、夜中に文字を読んだり繕い物をすることは難しかったそうだ。手元を見るときだけは油を足すための「障子窓」を開いてそこから灯りを漏らすか、障子紙そのものを取っ払ってしまっていたらしい。小さな灯りを一生懸命覗き込んでいたわけだ。
 点火には火打石を使う。起こした火花を蒲の穂綿や消し炭で作った火口(ほくち)に付け、そこから薄い木片に硫黄を付けた付木(つけぎ)に移す。この一連の作業がなかなか面倒らしく、昔の人にとっては、灰の中に火のついた炭を埋めるなどして、火種を絶やさないようにするのが常識だったそうだ。「近所に火種を借りに行き〜」から始まる話もテンプレートとしてよくあったそうな。

2:蝋燭
 当時の蝋燭は行燈の三倍から五倍ほど明るかったが、櫨(はぜ)の実を精製したはぜ蝋(木蝋)を主に使っていたそうで、生産量が少なく高価だった。黄褐色の蝋を天日干しするだけで一カ月かかったそうである。
 高級品だったために、「蝋燭の流れ買い」という商売が成立していた。燭台や蝋燭立てに残ったしずくや燃え残りを目方で買って歩いたそうだ。
 主に武家の冠婚葬祭や吉原の遊郭で使われたらしい。吉原は並んだ蝋燭の灯りだけでも「不夜城」と呼ばれるくらい、庶民にとって蝋燭は縁遠いものだったそうな。

3:天然の明かり
 江戸時代は「不定時法」を採用していた。日の出前の明るくなり始めた時分を「明六つ」(あけむつ)、日の入り後のまだ薄暗い時分を「暮六つ」(くれむつ)と定める。そして昼と夜の時間をそれぞれ六等分して一刻あるいは一時(どちらもいっときと読む)という時刻の単位にしたそうな。
 一刻=だいたい2時間というのはぼんやり知っていたのだが、ずっと「いっこく」と思い込んでいたので新鮮に思った。いっときなのね。
 陽の長さに合わせて毎日変えるのは煩雑なので、立春、夏至、大寒などの「二十四節季」に合わせて15日単位で調整していたようである。今の時報に相当する「時の鐘」もこの基準に従って一刻ごとに鳴らしていたそうだ。暦は太陰暦だが時刻は太陽が基準なわけである。
 基本的に日の出と共に起きて、夜も月の明かりを頼りにしていたらしい。今よりも灯りに関する生活コストの割合が高い時代だったのだ。
 曇りや雨や新月の夜に内職や勉強をするには、「行燈」もしくは「蝋燭」を使わざるを得なくなる。「遅くまで起きてごそごそやるともったいない」という生活感覚が、江戸時代の小説を書くには必要みたいだ。
 「江戸時代に一晩夜なべで〇〇を作ったときの生産量と生産コスト」みたいな論文がどっかにまとまってたらなぁと思う。探せばありそうではある。


posted by 雉やす at 10:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 書評(歴史・軍事) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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