桂枝雀
もともとつまらない生活を送っているところにつまらない仇が重なりまして、どうも気分がくさくさしていかん。なーんかおもしろいもんでもないかいなとぼんやり図書館を逍遥してたんですな。するとCDコーナーの一角に落語がたくさん置いてある。さして教養があるわけでもないですから落語がおもしろいもんかは知りませんけど、桂枝雀がおもしろいのは幼少のみぎりに「茶漬け閻魔」聞いて知っておりましたから、まあ一つ借りよかと手に取ると「はてなの茶碗」と書いてある。まあおもしろそうな演目ですな。はてなの茶碗で茶漬け食うのも悪くない、借りよ借りよと決めまして。
ところでうちの近所の図書館は一度にCDが四枚借りれまして、一枚借りると無理にでも残りの三枚借りないといけません。枝雀のCD他にもあったんですが、あんまりおもしろいものを一度に消費してしまうのはもったいない。かといってつまらないものは借りたくない。ほんならそこそこおもしろそうなもんでもと折衷するべく落語の棚をしつこく漁っておりますと、桂米朝のCDでたまたま「はてなの茶碗」が収録されてるのを見つけまして。
桂米朝というたら桂枝雀のお師匠さんです。まあ閻魔みたいなもんでしょう。
どうもはてなの茶碗という演目は戦後に寂れていたのを米朝がネタ組み直して復活させたようで、彼の十八番中の十八番とお品書きに書いてありました。聴き比べたら師弟の個性が際立ってさぞおもしろいことでしょう。つまらない仇のおかげで狭い落語コーナーのおもしろい偶然に気づけたんですから、世の中のめぐり合わせというのはよくできているものでございます。
さて京都は清水寺の手前にある茶屋。金兵衛という京都一の名の通った茶道具屋さんがお茶を飲み終えたんですが、なんだか様子が尋常ではない。飲み終えた茶碗を覗き込んではひっくり返し、日にすかしてはひねくりまわしたあげくに、「はてな」と言って店を出る。
ちょっと指差した器に十両の値が付く茶金さんが「はてな」とまで言ったからには、こんな茶屋で使われてるのがおかしい名品に違いない。五百両、千両の値がついてもおかしくないというわけで、様子を見ていた油屋と茶屋の主人が茶碗を取り合うところから話が始まります。
ここまで書いといてなんですけど落語の笑いどころを抜粋して紹介するのはゲスなんでやりません。強欲な油屋と人間ができてる茶金さんの対比的なやりとりであったり、トントン拍子に話が大きくなっていく後半であったり、サゲの前後でコロッと心情が入れ替わるところであったり、笑いの基本である繰り返しをうまいこと使うなと感心します。よくできた話です。
米朝と枝雀で際立って違うのは油屋の演じ方です。米朝の油屋は暴力的でもあり聞き分けがよくもあり、「目上の人の前だけかしこまる不良」という感じで。実家に帰りたいという切実な語りもどこまでが騙りなのかなと疑わせるところがあります。そういうチラリチラリと見えていた本性がサゲでさらけ出されるのが笑いになっています。
ところが枝雀の油屋はとことん陽性のお調子ものになってます。序盤で茶碗を割ろうとするところ、米朝の油屋は茶碗を手に入れるための「駆け引き」「脅し」としてそれをやっているんですが、枝雀の油屋は真面目なんですね。本気で茶屋の旦那に嫉妬して、あんただけ儲けさせてたまるかいっていうただそれだけの理由で茶碗を割ろうとするんです。
実家に帰りたいと言うのも、茶金さんの人徳に感心するのも、ほんまもんの真面目のように聴こえるだけの感情表現があるんです。サゲで本性が晒されるんじゃなくて、はなっから本性丸出しなんですけど、その本性が嘘なしなのにもかかわらずコロッコロ変わっていく「移り気」のおもしろさがあるんです。
「建前と本音」を表現している米朝の油屋と、
「緊張の本音と緩和の本音」を表現している枝雀の油屋とでもまとめましょうか。
話の筋で言うなら、最初に茶屋の旦那を騙そうとした油屋の狡猾な一面と、茶金さんと相対した時の素直な一面のどちらに演技を寄せていくか、というところでしょう。
油屋が嘘つきではないことを補完するために、枝雀は米朝の筋から一点だけはみだしています。油屋が大坂の実家に帰ってない理由付けをしてるんですね。
米朝の油屋が「いやいや金をあないしてあんたに貰うたもんのな、しょうもないことやって、恥かいたと思うたら、むちゃくしゃむちゃくしゃおもろうなかった」とさらっと流す部分を、
枝雀の油屋は「三両お借りしはしたもんの、しょうもない博打やって、何ちゅうことをすんねん思たんは、我とわが身がつまらん人間や思たら、むしゃくしゃしてなあ、仕事もろくに手につかなんだ」と言っています。この微妙な違い、言わんでもいいような本音を馬鹿正直に付け足すことで生まれる後味の良さ。やっぱり枝雀はおもしろいです。
さっきアマゾンレビューを確認したら、「米朝版があまりに完成されているために、枝雀の枠からはみ出るような元気がここでは抑えられている」と書いてありますけど、別段そんなことはありません。ちゃんとはみ出てます。
油屋に対する解釈が違えば、米朝の編集に不満が残る部分も出てくるんです。そして枝雀の「油屋という茶碗」に対する箔付けは、単に元気に演じるなんてレベルではない。米朝とは違う解釈に基づいたリアルがあります。