徒然草
バロン吉元
中公文庫(マンガ日本の古典17)(2000年8月)
徒然草(随筆)の漫画化って難しいだろうに、どうやったんだろうと思って手に取った。
あとがきを読む限りバロンも相当悩んだらしい。
悩んだ末にバロンは、吉田兼好を「後醍醐天皇アンチ」としてキャラ立てして、その関係性の中で随筆を解釈するという工夫をしていく。
後醍醐天皇は真言立川流という性欲肯定ヤリチン仏教の信奉者で、子供が三十五人もいたそうである。
言わば密教のハイエンドみたいな宗派であり、典型的な「枯れた老僧(元役人)」である兼好がいかにも忌み嫌いそうな宗派でもある。
兼好はそんな後醍醐天皇と仲の悪い邦良親王と親交があり、鎌倉に住んでいることからも、都からはかなり距離を置いていたことが分かる。
なるほど徒然草を、表には出せない天皇への反発が描かれた随筆として読み解くだけの、状況証拠は揃っている。
そうして後醍醐天皇アンチとして読み解くと、納得し得る段もかなりある。
第六段では「身分に関係なく子供はいない方がよい」というめちゃくちゃなことを言っているが、これも夫婦和合子作り奨励の立川流を否定したいから、極端なことを書いているわけだ。で愛欲を戒めて色欲に囚われず質素に暮らせばよいと何段にも渡って書き連ねている。
ただ、恋愛が主題の和歌に抵抗があるわけではなく、むしろ積極的に評価している。この辺り一貫性がない。
段も後ろの方になると「夜中にこっそり偲び合うような男女の純愛はよいよね」というような、萌えおやじ染みたことも言う。
愛欲と性欲が枯れても萌えは残るよね分かります(本田透まだ生きてるのかなぁ。南無阿弥陀仏)。
おもしろさの傾向としては
仁和寺しくじりシリーズ>有職故実メモ>説話・教訓話>仏の教え語りとなる。
仁和寺しくじりシリーズ
まずは有名な第五二段。
仁和寺のお坊さんが石清水八幡宮を参拝したとき、山頂に本宮があるのを知らずに麓の宮だけ参拝して帰ってきてしまった。ちょっとしたことでも道案内が欲しいものである。
続いて第五三段。
稚児が僧侶になるのを祝って寺で宴会をやっていたら、足鼎(三本足の壺)を頭に被って舞を舞っていた僧侶が苦しみだした。どうも足鼎が頭から抜けなくなってしまったらしい。引っ張っても血が出る、捻って引っ張っても血が出る。叩き壊そうと頭をガンガン叩いても壊れない。しまいにはわらしべ(細いわら)を足鼎と顔の隙間に何本も挟み込んで滑りをよくして無理やり引っ張った。なんとか足鼎を頭から抜くことはできたが、その僧侶は耳と鼻を失ってしまった。
続いて第五四段。
可愛らしい稚児を驚かせようとサプライズパーティーのようなことを僧侶たちが行った。ある僧侶が破子(白木でできた弁当箱)を木の葉の中に隠して、「私の法力で枯葉を食べ物に変えてみせましょう」とにゃむにゃむお経を唱えたが、破子が木の葉の中から消え失せている。手分けして探しても見つけることができなかった。どうやら目を離した隙に誰かに盗まれてしまったらしい。むやみに面白くしようとするとかえってしらけてしまうものである。
少し飛ばして第六十段
仁和寺の盛親僧都は弁が立って見た目もよいが勝手気ままであり、仏法の講義をするときでも里芋を食べながらやる。病気も里芋を食べて治す。師から受け継いだ財産もみな里芋に代えてしまった。そんな変わった人でも人に嫌がられず何事も許されていたというのは徳が高いということであろう。
――これらの段では一見おもしろいエピソードトークに仕立てつつ、様々な角度から仁和寺をディスっている。
五二段では「仁和寺の坊主は常識知らず」
五三段では「宴会で浮かれ騒いで大けがする阿呆ども」
五四段では「必死に趣向を凝らして稚児の機嫌を取ろうとする男色趣味の愚か者ども」
六十段では「我も食欲も強い僧侶を思いのままにさせるような寺院としての秩序のなさ」
中々楽しそうでけっこうな寺じゃないかと思うのだが。なぜ兼好がこうも執拗に仁和寺のしくじりエピソードを書き連ねるのかと言うと、
仁和寺は――真言宗の寺だからだ。
もはや立川流が嫌いを通り越して、その源流である真言宗そのものが嫌いなのである。悪評をあれこれ書き残してしまうほどに。
……というふうにも読み取れるので、バロンは実によい工夫をしてくれているなと思う。「後醍醐天皇アンチ」は素晴らしい補助線だ。
〇
徒然草はそこはかとない文章なので、内容が薄かったり似たり寄ったりの段もそれなりにあるが、バロンはあれこれ工夫して順番通りに網羅的に描いてくれている。一ページ当たりの手間と苦労が偲ばれる。画力もすばらしい。p99の猫又の迫力といったらもう。
徒然草のいいところでもあり、しょうもないところでもあるのが、
こんなにも「仏の道に従え」と繰り返して段を進めるくせに、読んでも仏教についてさっぱり詳しくなれないところにある。
ほぼほぼ世俗のことしか書いてない。
僧侶について書く場合も僧侶の言動についてのゴシップばかりで教えの中身にはあまり触れない。
兼好の仏教観は、いかにも野狐禅的というか、「万事諦観」の一言で済んでしまうような健康さがある。生涯「門前の小僧」であり、悟りを追い求めて悩むようなことはしないのだ。
例外的に第三九段で法然上人の語りが描写されている。
ある人が念仏の最中に眠気に襲われて困るという。上人は「目のさめている間に念仏しなさい」という。
その人が「念仏すれば極楽往生できますか。必ずできますか」と念を押すと、
上人は「確かにできると思えばできることであり、不確かと思えばできないものです」「しかし疑いながらでも念仏すれば極楽往生できるのです」と説いている。
これを「法然上人の言われたことは実に尊い」と兼好は評価している。
この評価が仁和寺に対するような嫌味でないことは、終わりの際の二四一段を読めば分かる。
”そんなに頑張ることはないのだ。幻のような一生の中に何事をしようとするのか空しいだけである
全ての願望はみな心理に向かう邪念の産物なのだ。邪念は本心を乱す。願望など放棄して仏の道に進むがよい。”
と締めくくられるこの段だけは、他の仏教語りの野狐禅とは違って、不思議と腑に落ちるものを感じた。
バロンはこの段を「建武の新制」に励んだ後醍醐天皇を意識したものと捉えているが、
俺は「法然の他力」に共感しての文章だからだと思う。――お前が極楽浄土に行けるかどうか悩もうが悩むまいが、そんなことはどちらでもよい。諦めて念仏でも唱えておくがよい。
まさしく徒然草とは兼好法師流の「念仏」ではなかろうか。