神楽祭の舞楽を見に行ったのだが、雨の日は午前中のみということを失念してのんびり寝すぎたために見れず。しょうがないから普通に参拝してきた。
拝殿で「いろいろ頑張りますからお金持ちになれますように(大意)」と祈ったところ、
(――聞こえますか)と声がした。
(次の参拝からは――カメラを持ってくるのです――
カメラを持っていなければ「一人で神社をうろつくやべーやつ」ですが――
カメラを持てば「あ、写真撮りに来た人なんだね」と周りの人も安心するのです――
カメラを持ってくるのです――)
あ、なるほど。
なんかこう幸せそうに仕上がってる親子連れとか、出来上がってるカップルとか、江戸時代の一生一度の参拝をする庶民の如くに「今日は来てよかったのう」と感無量のご老人方とか、そういう群れに混ざって所在なさげにしてたんですけど、そういうときのためのカメラなんですね。
そうか、大人はそうやって「趣味」を言い訳にしながら「立場」と「形式」を整えるんですね。勉強になりました。格好をつける、ということは、そういうことなんですね。
神託に納得しつつ神宮を出ておかげ横丁で食べ歩きの態勢に入る。
しかし、鯛茶漬け、松坂牛ライスバーガー、伊勢うどん、あわび串焼きを食べたところで、思いのほか早く限界が来てしまう。そんな馬鹿な。まだ海鮮丼も松坂牛丼も食べてないし、横丁半分も進んでないのに。
そう悔やんでいると、
(――聞こえますか)と声がした。
(あわび串焼きがいけなかったのです――
妊婦が食べると瞳の大きな赤子が生まれると評判の、明らかにカップル狙いの出店に――
あわび喰いてぇと割り込んで――バター醤油でいただきましたね?――
そういうことをしてはなりません――
なんだかよそ様の瞳の大きな赤子を喰い殺してしまったような気持ちになるではありませんか――
あなたの後ろに並んでいたカップルは「え、お前が食うの?」と不吉な気持ちになるではありませんか――
なりませんなりません――)
なるほどそれでかと神託に納得して、諦めて適当にお土産を選び、帰ることにした。
しかし納得はしたもののの、伊勢神宮の神様といえば天照大御神である。いかに的確だとはいえ、天照大御神が一衆生如きに神託を二度も与えるというのは少しせわしないのではないか。本来凡俗に関わるような格の神様ではないだろうに――。
そう思っていたのだが、謎は帰り際に明らかになった。
――かつて伊勢の地には碧志摩メグというそれはそれは愛された萌えキャラがいたのだが、
邪悪なフェミニストどもに胸をえぐりて殺され、海に捨てられたのだという。
それを不憫に思った天照大御神は彼女の魂を海から掬い取り、自らの眷属として神宮に招いたのだという。
立ち絵を新たに生まれ変わった彼女は、眷属として、「女神様が直接出張るほどでもないけど放っておくのもアレだな」という案件に関わるようになり、時折参拝者に的確な神託を与えるのだそうだ。
「あなたの――言葉だったのですね」
立ち絵の彼女は何も言わなかった。そこはもう神宮ではなく、それはただの看板であり、――而して、私の疑問に対する三度目の神託だったのだ。

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