2023年06月16日

わずか一しずくの血/連城三紀彦

わずか一しずくの血
連城三紀彦
文藝春秋(2016年9月)



”薬指に結婚指輪をはめた左脚の白骨死体が山中で見つかり、
石室敬三とその娘は、その脚が失踪した妻のものだと確信する。
この事件をきっかけに、日本各地で女性の身体の一部が発見される。
伊万里で左腕、支笏湖で頭部、佐渡島で右手……
それぞれが別の人間のものだった。
犯人は、一体何人の女性を殺し、
なんのために遠く離れた場所に一部を残しているのか?
壮大な意図が、次第に明らかになっていく超絶ミステリー。”

失踪した妻から一年ぶりに電話がかかってきた。そっけない電話はすぐに切れたが、夫と娘は、電話の裏に見知らぬ男の存在を感じ取る。
その電話をかけた妻らしき女は、温泉宿の客室で顔が潰され、左脚が欠損した状態で発見された。
夫はひどく戸惑った。その温泉宿の近くの山から、別の白骨死体の一部が見つかったからだ。その一部とは結婚指輪を足先に付けた左脚だった。
妻もまた、結婚指輪を左足に付けていたのだ。果たして電話をかけてきた女が妻なのか、それとも白骨死体の方が妻なのか。

という掴みがすばらしい。よくよく考えれば変なことをやってるんだけど(普通結婚指輪足にはつけないよね)、そこを妻の脚の描写、妻に似てきた娘の脚の描写、最後に被害者を見かけた女中が見た脚の描写と積み重ねることによってリアリティを増している。

この冒頭の謎には意外と早くネタばらしがあり、思ったより早く犯人視点の描写が出てくる。この犯人もまた変なやつで、どう変かというと異常に女にもてる。そこも犯人視点での、北海道の片田舎でスナックのママを引っかけるくだりや、犯人にほだされて警察を騙してまで仙台の七夕祭りで待ち合わせをする女中視点での描写で補完していく。

この作品で連城三紀彦が多用しているテクニックは二つ。
@設定や話の展開で現実味が薄い部分を描写力(特に心理描写)で補う。
A視点の切り替えや場面転換を多用し、その隙間に真相を入れ込む。

犯人が何のために、誰を、どのように、が仄めかされながらもぼかされたままで、そこに最後まで推理する余地がある。

ただ、作者の死後に連載が単行本にまとめられたという経緯の一冊なので、作り込みという点で惜しいところもある。
犯人は左右認識障害の兆候があるという描写が序盤に出てくるが、結局そこは序盤の1ミス以外では使われないし。
バラバラ死体遺棄の真相には意外性が足りていない。見たまんま、では「見立て」にはならない。
上記の二点は組み合わせて「見立て」を歪めるなどすれば簡単に修正できるだろうが、連城三紀彦にはもうその作業をする余力はなかったのだろう。晩年は親の介護に勤しんでいて、執筆作業はできなかったそうだ。

そう言った意味でこれを完成品として批評するのはフェアでないとすら思う。ただ出版した意義は買う。文章だけで十分完成品になっている。

犯人の幼少期の回想は特に素晴らしい。沖縄の暑さ、基地から轟く戦闘機の騒音、姉の友人の脚、性の目覚め、五感を全部刺激してくるようなすばらしい文章だった。
小説における文章力というのは、できる話の幅を広げてくれる翼なんだなとよく分かった。

女性観、女性心理という点では今の時代のリアルにはそぐわないかもしれない。ただ、まだ携帯電話もなかった時代。平成(連載していたのは1995年〜)から昭和の過去を描いたこの作品においては、十分に成立していると思う。
むしろその女性心理を男の刑事にも適用しているのがおもしろい。後半からサスペンスのテンプレートをなぞるように「切れ者刑事との対決」要素も入ってくるんだけど、その刑事がどんどんイカれていくんだよね。で最終的に唇を指でなぞると。よきよき。

ラベル:連城三紀彦
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2023年06月07日

徒然草/バロン吉元

徒然草
バロン吉元
中公文庫(マンガ日本の古典17)(2000年8月)



徒然草(随筆)の漫画化って難しいだろうに、どうやったんだろうと思って手に取った。
あとがきを読む限りバロンも相当悩んだらしい。
悩んだ末にバロンは、吉田兼好を「後醍醐天皇アンチ」としてキャラ立てして、その関係性の中で随筆を解釈するという工夫をしていく。
後醍醐天皇は真言立川流という性欲肯定ヤリチン仏教の信奉者で、子供が三十五人もいたそうである。
言わば密教のハイエンドみたいな宗派であり、典型的な「枯れた老僧(元役人)」である兼好がいかにも忌み嫌いそうな宗派でもある。
兼好はそんな後醍醐天皇と仲の悪い邦良親王と親交があり、鎌倉に住んでいることからも、都からはかなり距離を置いていたことが分かる。
なるほど徒然草を、表には出せない天皇への反発が描かれた随筆として読み解くだけの、状況証拠は揃っている。

そうして後醍醐天皇アンチとして読み解くと、納得し得る段もかなりある。
第六段では「身分に関係なく子供はいない方がよい」というめちゃくちゃなことを言っているが、これも夫婦和合子作り奨励の立川流を否定したいから、極端なことを書いているわけだ。で愛欲を戒めて色欲に囚われず質素に暮らせばよいと何段にも渡って書き連ねている。
ただ、恋愛が主題の和歌に抵抗があるわけではなく、むしろ積極的に評価している。この辺り一貫性がない。
段も後ろの方になると「夜中にこっそり偲び合うような男女の純愛はよいよね」というような、萌えおやじ染みたことも言う。
愛欲と性欲が枯れても萌えは残るよね分かります(本田透まだ生きてるのかなぁ。南無阿弥陀仏)。

おもしろさの傾向としては
仁和寺しくじりシリーズ>有職故実メモ>説話・教訓話>仏の教え語りとなる。

仁和寺しくじりシリーズ
まずは有名な第五二段。
仁和寺のお坊さんが石清水八幡宮を参拝したとき、山頂に本宮があるのを知らずに麓の宮だけ参拝して帰ってきてしまった。ちょっとしたことでも道案内が欲しいものである。

続いて第五三段。
稚児が僧侶になるのを祝って寺で宴会をやっていたら、足鼎(三本足の壺)を頭に被って舞を舞っていた僧侶が苦しみだした。どうも足鼎が頭から抜けなくなってしまったらしい。引っ張っても血が出る、捻って引っ張っても血が出る。叩き壊そうと頭をガンガン叩いても壊れない。しまいにはわらしべ(細いわら)を足鼎と顔の隙間に何本も挟み込んで滑りをよくして無理やり引っ張った。なんとか足鼎を頭から抜くことはできたが、その僧侶は耳と鼻を失ってしまった。

続いて第五四段。
可愛らしい稚児を驚かせようとサプライズパーティーのようなことを僧侶たちが行った。ある僧侶が破子(白木でできた弁当箱)を木の葉の中に隠して、「私の法力で枯葉を食べ物に変えてみせましょう」とにゃむにゃむお経を唱えたが、破子が木の葉の中から消え失せている。手分けして探しても見つけることができなかった。どうやら目を離した隙に誰かに盗まれてしまったらしい。むやみに面白くしようとするとかえってしらけてしまうものである。

少し飛ばして第六十段
仁和寺の盛親僧都は弁が立って見た目もよいが勝手気ままであり、仏法の講義をするときでも里芋を食べながらやる。病気も里芋を食べて治す。師から受け継いだ財産もみな里芋に代えてしまった。そんな変わった人でも人に嫌がられず何事も許されていたというのは徳が高いということであろう。

――これらの段では一見おもしろいエピソードトークに仕立てつつ、様々な角度から仁和寺をディスっている。
五二段では「仁和寺の坊主は常識知らず」
五三段では「宴会で浮かれ騒いで大けがする阿呆ども」
五四段では「必死に趣向を凝らして稚児の機嫌を取ろうとする男色趣味の愚か者ども」
六十段では「我も食欲も強い僧侶を思いのままにさせるような寺院としての秩序のなさ」

中々楽しそうでけっこうな寺じゃないかと思うのだが。なぜ兼好がこうも執拗に仁和寺のしくじりエピソードを書き連ねるのかと言うと、
仁和寺は――真言宗の寺だからだ。
もはや立川流が嫌いを通り越して、その源流である真言宗そのものが嫌いなのである。悪評をあれこれ書き残してしまうほどに。

……というふうにも読み取れるので、バロンは実によい工夫をしてくれているなと思う。「後醍醐天皇アンチ」は素晴らしい補助線だ。




徒然草はそこはかとない文章なので、内容が薄かったり似たり寄ったりの段もそれなりにあるが、バロンはあれこれ工夫して順番通りに網羅的に描いてくれている。一ページ当たりの手間と苦労が偲ばれる。画力もすばらしい。p99の猫又の迫力といったらもう。

徒然草のいいところでもあり、しょうもないところでもあるのが、
こんなにも「仏の道に従え」と繰り返して段を進めるくせに、読んでも仏教についてさっぱり詳しくなれないところにある。
ほぼほぼ世俗のことしか書いてない。
僧侶について書く場合も僧侶の言動についてのゴシップばかりで教えの中身にはあまり触れない。
兼好の仏教観は、いかにも野狐禅的というか、「万事諦観」の一言で済んでしまうような健康さがある。生涯「門前の小僧」であり、悟りを追い求めて悩むようなことはしないのだ。

例外的に第三九段で法然上人の語りが描写されている。
ある人が念仏の最中に眠気に襲われて困るという。上人は「目のさめている間に念仏しなさい」という。
その人が「念仏すれば極楽往生できますか。必ずできますか」と念を押すと、
上人は「確かにできると思えばできることであり、不確かと思えばできないものです」「しかし疑いながらでも念仏すれば極楽往生できるのです」と説いている。

これを「法然上人の言われたことは実に尊い」と兼好は評価している。

この評価が仁和寺に対するような嫌味でないことは、終わりの際の二四一段を読めば分かる。

”そんなに頑張ることはないのだ。幻のような一生の中に何事をしようとするのか空しいだけである
全ての願望はみな心理に向かう邪念の産物なのだ。邪念は本心を乱す。願望など放棄して仏の道に進むがよい。”

と締めくくられるこの段だけは、他の仏教語りの野狐禅とは違って、不思議と腑に落ちるものを感じた。
バロンはこの段を「建武の新制」に励んだ後醍醐天皇を意識したものと捉えているが、
俺は「法然の他力」に共感しての文章だからだと思う。――お前が極楽浄土に行けるかどうか悩もうが悩むまいが、そんなことはどちらでもよい。諦めて念仏でも唱えておくがよい。

まさしく徒然草とは兼好法師流の「念仏」ではなかろうか。
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2023年06月05日

闇の少年/一色まこと

闇の少年
一色まこと
小学館(2022年10月)



”『ピアノの森』の一色まこと×
数々のヒット作を放つ長崎尚志のタッグで贈る
ジュブナイル・サスペンス!!”

上下巻で完結済み。
子供たちが森の奥を探検していたら廃屋を見つけて、そこにいた陽の光を浴びられない男の子が実は精霊で、体を乗っ取られそうになる。
「ペットの犬の体をあげる」とつい口約束してしまうも反故にして逃げ出すが、家に帰るとペットの顔(目つき)が男の子のそれになっていた!
という出だし。
この男の子精霊が入った犬の顔が実に不気味でぞくっとする。一目で「入ってる」ことが分かりつつ、でも犬の原型はとどめていて、という、非常に良いデザインをされている。
一色まことはキャラクターの表情、特に「つぶらな瞳」が魅力的な漫画家なんだけど、本作はそれに加えてホラー描写がしっかり怖い。

精霊くんが生き返るためには生き埋めにならないといけない
→でも生き埋めはすごく苦しい。途中でやめたり誰かが掘り出したりしてしまうと生き返られなくなる

という場面があるんだけど、口からあらゆるものを吐き散らかして苦しんでいる精霊くんの描写とか。体が腐りかけていく精霊くんの描写とか。すばらしいね。ハートフルな絵柄なのにがっつり恐怖感を掻き立てられるってすごいと思う。
途中出てくるボケたおじいちゃんですら「このつぶらな瞳のおじいちゃん今から何すんのか分からなくてすんげぇ怖い」ってなるからね。

ストーリーについては古事記やら鬼子母神信仰やら援用しつつ、かなり複雑なことをやっていて、よく上下巻でまとめたなという印象。
マッマの性格が残念なのは全体のバランスで見ればありなんじゃないですか。動機が変にリアルだと、辛くなるばかりだし。
実際マッマの境遇自体は最悪やからな。息子は病弱、舅はボケてる、旦那は他人事。
これでマッマが普通のメンタルだったらただの辛い話になってしまうからね。

何がいいって体を乗っ取ってくる精霊くんの他に、「誰にも見られないし気づかれないけど、傍にいたり助けてくれたりする」精霊らしい精霊がもう一人いるところ。説明らしい説明もなくただ、いる、というね。

作画、ストーリー、キャラクター配置。様々な要素に技巧が駆使されている、レベルの高い作品だなと思う。
子供が読んだら忘れられない一冊になるんじゃないだろうか。

posted by 雉やす at 14:09| Comment(0) | マンガレビュー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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